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●研究所を開くようになった動機

昭和一桁生まれといえば、ご想像頂けると思いますが、所謂大東亜戦争〜終戦〜廃墟の中からの復興期に青春の泥と汗を流して、今日の繁栄を築き上げて来た中核を担った世代と思います。その若かりし日の食糧不足の状況は、アフリカ等の低所得国に見る食糧難に匹敵するものでした。その時、食糧生産、農業振興に懸けた夢と汗が農業一辺倒の人生観を培ったものと思っています。

志をもち、幸い農業の道一筋に学び、おかげで岡山県農業試験場果樹分場を振り出しに、農業高校教員、農業改良普及員等を歴任いたしました。しかし、日本のGNPの飛躍的発展に引き換え、農業は衰退し、農業高校での農業後継者育成が困難になりました。そこで、論より証拠、若い人に夢を湧かせるような儲かる農業、新時代を開拓する農業経営の確立、実証がより大切な仕事と考えました。私にできることは過去40年近く関心を持ったぶどうがある。人生、気力の充実している時が大切と、昭和64年(56歳)で早期退職し、困難を承知で個人で「花澤ぶどう研究所」を開設しました。

私は農業が衰退することは町の発展、生活環境改善、文化、福祉の向上も問えず、ましてや、日本人の食糧の安全保障を考えても、農は国の基に変わりありません。日本の農業に想いを移せば、食糧を外国に依存していての未来の発展と平和が保障され得るのか?国際的地位が保全され高揚できるのか?国土と環境保全が全うできるのか?農は国の基と確信し実践しています。


●研究所の活動目標

時代の変化は経済と生活の変化であり、消費者ニーズの変化であり、全てのものが変化を続けています。私たち農業者は農作物(商品)を生産し販売することで成り立っている職業であることを自覚し、この変化に遅れることなく、消費者に信頼され、喜んで頂ける商品を生産し提供しなければならないと思います。この生産者、消費者一連の活動の中で存立可能な農業がこれからの日本農業の姿と考えています。

当研究所は微力ながら、そのモデルの実現に努力し、若い人と農の夢が語れる農業、農にかけた農民の人生の自信回復、地位向上を目指します。

私どもが挑戦し続けていますこのような夢の結果として、果実を「花澤の珍しい世界のぶどう詰め合せ」として消費者の皆様にお届けしています。毎年、多くの方々にご好評をいただき、その声によって励ましをいただいています。あわせて、苗木の販売をはじめ、個人、団体のぶどう相談、技術支援も行っています。そして、遠くの地で豊かな実をつけたおたよりもいただき嬉しく思っています。



●経緯

                                               
1955年(昭和30年) 岡山県農業試験場果樹分場勤務

1956年(昭和31年) 岡山県立精研高等学校勤務 果樹担当ぶどう栽培

1961年(昭和36年) 品種探究・品種収集開始(ポストキャンベル) 〜

1967年(昭和42年) 現在地へ宅地取得

1968年(昭和43年) 農地取得・試作農場設立

1969年(昭和44年) 岡山県立瀬戸農業高等学校(現瀬戸南高等学校)勤務〜1988年

この間に宅地周辺の農地を取得、ぶどう試作園設置とともにぶどう品種の収集・試作・データ収集・交配育種・品種改善・栽培方法の研究に努める。

1989年(平成元年) 農業高校を退職し、花澤ぶどう研究所設立 
育種母本品種の保存(約100品種5a) 最多時270品種 実生および選抜中の個体多数
3月:『ハイベリー』・『瀬戸ジャイアンツ』の品種登録
4月:花澤ぶどう研究所の設立
7月:『涼玉』の品種登録
9月:『ブラック三尺』の品種登


1990年(平成2年) 11月:『ヤトミローザ』品種登録

1997年(平成9年) 1月:『マスカットデュークアモーレ』品種登録
3月:『備前ゴールド』品種登録


2001年(平成13年) 第2農場農地取得

2002年(平成14年) 3月:『秋峰』品種登録
11月:第2農場ハウス建設


2006年(平成18年) 第1回『感謝デー』開催

2007年(平成19年) 第2回『感謝デー』開催
『赤磐ブランド』認定
農林水産技術会議会長賞受賞


2008年(平成20年) 第3回『感謝デー』開催

2013年(平成25年)
花澤ぶどう研究所 顧問